評価をめぐって

評価とは何だろうか。


評価とは常に上からである。ある評価軸があって、その評価軸自体に価値があると思うから、その評価軸において人は誰かを評価することになる。


だから下のものが、上のものに対して

「よく、できましたねぇ」

というと、なんだかおかしな感じがするのである。


なぜならそれは、私の評価軸は、あなたを評価するのに十分な価値を持っているのだと思っていることを暗黙のうちに示さざるを得ないから。つまり、あなたは私の評価軸の範囲内の人であり、私が理解できないようなことはあなたは知らないのだ、ということを前提にしている。人は自分が知らないことは評価できないし、自分が知らないことを多く知っている人のことを評価することはできない。なので評価するとは、あなたは私の評価範囲内の人であると考えているいうことを意味している。人は自分より二段も三段も先に進んでいるもののことを正しく評価できない。場合によっては自分よりも劣っているのだと勘違いしてしまうことだってある。まさに無知そのものであるのだが、人はそうしてしまう。


だから誰かを評価するということは難しい。「お前に褒められたって、なんの意味もねーぜ」って思われることだってあるだろうし、実際にその指摘が正しいことだって往々にしてあるから。


最近において重視されるようになってきた評価の一つとして、大学の評価がある。


でも大学の評価とは何だろうか。大学の評価というものが学生から本当に価値が認められるためには、授業において、何か本当に大切な価値あることが教えられている必要がある。数式で証明できる理科系の授業であれば比較的に簡単な話かもしれないが、特に人文系の授業では簡単ではない。


こんな人に教えてもらうことなど何一つないと思えるような教授はたくさんいる。くだらない、自分の我儘を主張し続けるだけの教授もいる。そんな授業でいい評価を取ることにいったい何の価値があるのだろうか。そんな授業に出るぐらいなら、古を生きた知性たちが書いた古典を一人で読み続けているほうが1千倍の、1万倍の価値がある。


ここにおいて矛盾が生じるのだろう。


本当に価値あるものを求める人と、どうでもいいことに価値を見出すものとでの間で社会における評価の逆転が生じる。前者は社会の評価からはずれていく。後者は社会に従順なために高く評価されていく。何か新しい価値を見出そうとしたり、既成の価値に従うだけではよしとしないもの。彼らは、後者の社会の評価軸に素直に従っていくものよりも低い評価をつけられるようになる。後者は俗にいう世渡りの上手な人というわけだが、実は、人間において最も重要な魂は失ってしまっている。そして、魂を失ってしまっていることすら知らないし、そう指摘されたとしても何を言われているかも分からない。


本当に優れたものより、二流のものが評価される。別にこれは現代に限ったことではなく、どんな時代においても、どんな社会においても起こることだろう。いかに下らない人間が、何も考えていない無責任な人間が、社会においてある程度の地位を占めているかを見れば、誰にだって分かることだろう。(※1)


そして、それは必ずしも悪いことではないのだろう。社会が一定の評価の軸を持っていることは、社会の安定のために必要なのだろう。だけれども、それを金科玉条、不磨の大典としてしまっては、社会の空気は濁り、沈澱して、みな窒息してしまうだろう。社会の評価軸は必要なものとして認めつつも、それだけが全てではないということを、どれだけ多くの人が分かっているかが、社会の安定と革新に向けた重要な要素になるのだろう。もし現在の社会の評価が全てなんだと思って、それに従順に従うことだけしか知らない人たちだけが高い地位を得るようになれば、そこに待っているのは全体主義の社会だろう。


どんな理想も、どんな優れた思想も、そこに込められていた思いが失われてしまえば、ただの物質となってしまう。社会に活気を与えるのではなく、社会を物化してしまう。かつては清洌な風を運んできた思想だって、そこに込められた魂が忘れられてしまえば、社会を停滞させてしまう。かつての前衛思想だった共和主義が、現代では米国でもフランスでも保守派になっていることが、その事例の一つだろう。(※2)


そう、だから自らが持つ評価軸が、社会が持っている評価軸と異なる人は大変だ。特に悪に負けて堕落したためにおかしな評価軸を持っているものと混同されることが大きな苦労の源になる。社会の評価軸を従順に受け入れて生きてきたものたちにとって、両者の違いを見極めるのは容易なことでない。そこに誤解と勘違いが生まれる。何か新しい軸を生み出したもの、生み出そうとしているものは必ず誤解され、必ず苦労する。新しい評価の軸を生み出そうと努力することによって、善くあろうとすることによって、まさにそのことによって苦しむ。それは2000年前だってそうだったし、どの時代においてもそうであり続けてきたし、現代も変わりはしない。


しかし実は、そういう人生にこそ生きる内実があるのかもしれない。そういう人生を生きることこそが、生きるということなのかもしれない。新たな価値とかつての価値がぶつかり合うことによって生まれる矛盾と葛藤にこそ、そこに生まれる摩擦にこそ、生命の輝きが隠れているのかもしれない。


※1 「社会の評価」に評価を与えなければ、「社会の評価」がおかしなことをしていること自体はどうでもよくなる

※2 必ずしも両国における左派政党のほうがましであるということを言いたいわけではない