『孟子』とは言わずと知れた、紀元前4~3世紀を生きた古代中国の思想家である孟子(紀元前372?~紀元前289?)の言葉を記した本です。2400~2300年を超えて読み継がれる偉大な書物です。
専門家からすれば書き記すことは膨大にあるのでしょう。本記事では「自分を超えた存在」と「天と一致すること」、「神とは何か」の3点に絞って書いてみます。
自分を超えた存在
人にできることはあるが、人は天に逆らうことはできず、人は天に従っているのだ、という考えがこの言葉にはあります。「俺が俺が」「私が私が」といった喧しい自我の叫び声はありません。
植物の例えがわかりやすいですね。植物となれば、こんな阿呆なことをする人はあまりいないでしょう。でも植物でなくて、人が相手だったりすると、我慢しきれずに、根を引っこ抜いてしまうようなこともあるのでしょう。ここにも人の力には限界があるということ、天にしかできないことがあるのだという考えが背景にあります。
天と一致すること
天は人間を超えた力を指しています。もしこの天に逆らわずに、その天の力、天の思いと自身の向かうところを一致させたらどうなるのか。孟子は、天の思いが自らの思いとなったものを「天命を執行する天吏」と呼び、「天下無敵」だとも呼んだのでしょう。
これは有名な文章ですね。天の思いが自らの思いとなったものが「至誠」なのであり、「至誠」のものによって動かされないものはいない、ということなのでしょう。天の言葉が受肉した存在、そのようなものが「至誠」なのでしょう。これもまた天の考えが背景にあります。
「俺が俺が」「私が私が」という思いをもった人が力を持った場合には、成し遂げたことは全ての自分の力で得たものなのだと思うでしょう。そして、きっと傲慢な人間になるでしょう。神、天を知らない人はそうなってしまうでしょう。
しかし「至誠」の人は違います。彼は何かを成し遂げたとしても、それは天の力があってからこそであることを知っています。だから傲慢になどなることはないでしょう。どれだけ成功したとしても謙遜であり続けるでしょう。そして、だからこそ、彼に「感動せぬ者はいない」ということになるのでしょう。
読み下し文は以下の通りです。暗唱できるようになってもいいかもしれません。
およそ至誠にして感動せぬ者はいないし、誠ならずして人を感動せしむる者もないのである p.227
漢文は以下の通りです。
至誠而不動者、未之有也。不誠未有能動者也 p.242
漢文の知識はありませんが
至誠にして行動をなさないものはいないし、誠ならずして行動をなすものもいない
とも読めるのではないかと思いました。自らのなそうとしていることが天命であると思えば、なんらかの行動を起こすし、起こさざるをえないでしょう。どちらの読み方も正しいのかもしれません。天を前にしては「自己と他者」など消えさるものでしょう。
神とは何か
神とは何でしょうか。孟子は、神とはその存在を知られぬままに聖なることをなす存在であると述べています。よく、この言葉を発することができる場所まで歩まれたな、と驚きました。流石は数千年の時間などものともしない賢者ということでしょう。私たちが享受できている自由、自由のおかげで得られる経験、これらの後ろには孟子に限らず自由のために戦って来た人々がいます。
私たちはその人たちの個々の名前は知りません。そのほんの一部の一部の一部の人をしか知り得ることはできません。しかし孟子は、そのようにして後世に名も知られることもないまま「天下を化した」人たちが神なのだと言っているのです。これは救いの言葉と言えるでしょう。少なくとも、私にはそう思えます。やはり孟子は偉大な賢者であると言えるでしょう。
他にも優れた言葉がたくさんあります。一読することを強くお勧めいたします。