人はみな傷つく。当たり前のことを昨日、改めて思った。
学生時代から優しくしてもらっている人に久しぶりに会った。肩書と存在が合致している珍しい人だ。
穏やかだ。そう、とにかく穏やか。教養、知識、知恵、経験……そんな言葉が思いつく。この人に森有正を教えてもらった。森有正の文章は美しい。僕のなかで、この人と森有正の存在は重なる。いつか時間を作って、森有正全集をしっかりと読んでみたいと思う。いや、そうしよう。
この人はあまり自分のことを語らない。もう初めて会ったのは7年も前だけれども、あまり、特に若いときのことを知らない。
どういう話の流れだったのかは覚えていないけど、こう言っていた。
「例えば海外にいたからとか、英語ができるからあなたはいいと思われることがあった」
ああ、たぶん、この人は、そういう言葉に傷ついたんだろうなと思った。一人の人間として見てもらえない悲しさ。一人の人間としての努力を認めてもらえない悲しさ。ずっと一緒に過ごしていたのに、あるとき、そういう言葉が出てくる時がある、と。過去をあまり話さないのは、そういうことだったのかと分かった。人はみな、傷つくものだ。そう、思った。
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書いたものにも目を通してもらった。30万文字をゆうに超えている。この30万文字に、青春時代の全てが詰まっているように思う。悩んだこと、苦しんだこと、救われたこと。その全てが入っている。でも30万文字だ。わざわざ読もうと思ってくれるのは愛だろう。
「ちゃんと本を深く読み込んでいることが分かる。自分の言葉になっている。だから読みやすいし、言葉が届く」
こう言ってくれた。さて、この書いたものはどうしようか。なんとか形にしたい。言われたように、おそらく、より幅広い層の人に読んでもらえるように編集する必要があるのだろう。頑張ろう。
前にこれを書いたことを伝えたときは、30万文字もかと少し驚きながら、「君はきっと、それを書くために生まれてきたようなもんなんじゃないかな。僕にとっては、きっとそれが論文だったんだね」と言ってくれたことも記憶に残っている。きっと、真剣に生きた証なのだろう。どう形になろうとも、これを書いたことは素晴らしい経験になったと思う。
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そろそろ引退を考えている話も聞いた。いや、前から聞いていたけど、改めて聞いた。
次の人を見つけることが難しい。そう、それはそうだろう。引き継ぐのだとしたら知識と経験、そして継続する強い意志が必要だ。僕が言うのもなんだけど、なかなか、3拍子揃った、人物と言えるような人はあまりいない。知識だけ、あるいは経験だけ、あるいは意志だけある人ならいる。けれども3つ、揃っている人は滅多にいない。
前に少しだけ、やってみたらどうかな、と軽く言われたけれども、僕にはできない。ずっと続けてこられた事業には尊敬の思いしかないけど、それは僕の道ではないと思った。軽々しく引き受けてみたり、考えてみますなどとも言えない。それは失礼にしかならない。
「何か美しいものを自分の人生に取り入れようと思わなくなってしまった。今、君が歩いてくるのを見ながらそう思った」
なぜ僕を見てそう思ったのかは分からないけど、こうも言っていた。今、僕はまだ美しいものを見ると、美術館とかでは、ああ、これが家にあったらいいだろうなと思って買っている。そう思わないようになることは悪いことなのだろうか。それはまだ今の僕には分からない。
時の流れを感じた。最初にお会いしたのは7年前。当たり前だけど、お互いに7年だけ、歳をとった。
この時間は、この会話を交わしている瞬間は僕にとって極めて貴重なものだろう、ということを、言葉を交わしている最中にその人を見ながら思った。決して、この瞬間は再現することなどできない。いつか、この人の姿形は、おそらく僕よりも先にこの世から消えてしまう。たぶん、僕はとても寂しく思うだろう。きっと、昨日2人で話した店に、また来て思うだろう。あの人と過ごした時間は本当に貴重なものだった。そう改めて痛感するだろう。
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なんだか記憶に、記録にも残したくなった。
だから、こう、言葉にしてみた。言葉にすることが良いことなのかは分からない。言葉にすることが喜ばれることなのかも分からない。ときに言葉にすることが迷惑に他ならないことだってあるだろう。それはすごく分かる。痛いほどに分かる。それでも美しいことは言葉にしたい。美しいことは言葉に残したい。生きる喜びは他にどこに見つけられるだろうか。