無について考えている。
しかし、その考えられている対象は、考えられているという限りにおいて、無ではない。
なぜなら無は、無であるのだから、考えられる対象にはなりえないのだから。
だから無について考えているときに考えられているものは無ではないなにかである。
なにかである、ということにおいて、それは無ではない。
では、無について考えることはできないのか?
たぶん、できる。それは、何も考えてないときなのだろう。
同じことが神についても言える。
定義からして、神は全てである。であるのであれば、神は言葉を超えている。つまり言葉では神については語りきれない。
神を言葉で考えている限りにおいては、神を正確に考えることはできない。
じゃあ神を考えることはできないのか?
だふん、できる。それは、何も考えていないときなのだろう。
とここまで読んで、突っ込みが可能だ。
①「無については考えられない」と無について考えているではないか
②「神は言葉では考えられない」と言葉でもって神について考えているではないか
と自己言及的な突っ込みだ。
この突っ込みはかなり根本的だろう。
だから結局、無と神については考えられないし、語れない。
(※「だから結局、無と神については語れない」とも語れない。さらにいうと『「だから結局、無と神については語れない」とも語れない』とも語れない。以下無限ループ)
では、どうすればいいのか?
別にどうしなくてもいい。言葉で語れないものであれば、言葉で騙られることも決してないのだから。安心していればいい。そして、おそらく安心しているというあり方においてこそ、人は無と神を語るのだろう。もちろん、別に語らなくてもいいんだけどね。そして、同じように、別に語ってもいいのだ。まさにこの記事のように。